のんのんの無駄話

言いたいことを言いたいだけ言いたい

『僕が僕を見ている』の話

こんにちはのんのんです。

今回は2019年度のNコン課題曲について書きたいと思います(二度目になりますが)。ダダダっと書くと読みにくいと思ったので、以下のようにパートに分けてみました。

 

1.記事を書こうと思った理由とこの記事について

2.2019年度Nコン全国大会を聞いて

3.ラップの部分について

4.まとめ

 

1. 記事を書こうと思った理由とこの記事について

現在「Nコンの話 2020verその2」と「わが抒情詩の話」の二つの記事を作成しているのですが、前者の記事を書いている途中で、2019年度課題曲について、実際に取り組んだ高校生たちの演奏を聴かせてもらってもう一度考える必要があるのではないかとふと思い立ち、いてもたってもいられなくなったため、この記事を書き始めました。書くにあたって「Nコンon the Web」のサイトで全国大会出場校の演奏や公開されている講評を参考にしました。本来なら全ての出場校の演奏を聴くべきなのでしょうが、今回は「自分が以前考えていたことと実際の現場の演奏の比較」と「どのような演奏が評価されたのか」を考えようと思ったので全国大会での演奏にのみスポットを当てるつもりです。また、今回は以前書いた記事へのアンサーのような内容になると思われるので、よろしければ以下の記事をお読みになってからこの記事を読んでいただければと思います。

「Nコン課題曲の話(2019ver.)」

https://nonnonchorus.hatenablog.com/entry/2019/04/19/020126

この記事を書く目的は、自分が考えたことや自分自身の曲への取り組みと、一般的に評価される演奏との差異のようなものをちゃんと認識して、自らの感覚や考え方を批評することにあります。コンクールとかに出場しない指揮者は特に定期的にこういうことをしておく必要があるかなと思ったので書いてみました。

 

2. 2019年度Nコン全国大会を聞いて

どの演奏も本当に素晴らしい演奏でした。コンクールなどについて語る時にいつも思うのですが、毎年学生のレベルは上がっていることを感じます。取り組みかたや情熱など、見習わなければといつも襟を正す思いにさせられます。

さて、課題曲を聞いた感想ですが、どの学校もまず「音」をしっかりと磨いていました。これはごく当然のことなのですが、コンクールで一定の評価を得るためにはやはり技術をちゃんと固めておかないといけないということになります。僕はこれはコンクールだけではなく、おそらく音楽芸術の本質であると思っています。まず音を「絶対的に」磨いておくことがいい演奏の秘訣なのかなとここ数年は思っています。ただ、これは例年そうなのですが、やはり自由曲に比べるとボイスの統一感や和声のフレームなどに課題の残る団体も多かったと思います。しかし、自由曲が本当に名演ばかりだったので比較的そうであるだけで、この曲を表現するのに十分な再現力ではあったと思います。(この「十分」という表現はかなり危険で、語弊を生むことは承知していますが、他に言いようがなかったので渋々使いました)

表現について、全体的にそれぞれの団の持つ音色がそのまま曲全体の表現になっていたように感じました。大人びた声をしているところは大人な表現、クリアな明るい声のところはすっきりと軽やかな表現になっていました。これはおそらく各団体が意図したものよりも、曲の性質に依存しているところが大きいと思います。この曲が団の個性を邪魔しない作りになっているため、ちゃんと音を磨いた結果、その団の持つ特有の音色に沿った表現に「なっていた」のではないかなと聞いていて思いました。その中でも一歩踏み込んだ表現をした団体が全国大会でも高く評価されていたのですが、それでも変にこねくり回すようなことはしないで、楽譜やフレーズから自然に感じ取られる表現をそのまま素直に伝えようとしていた演奏が高く評価されていたように思います。Nコンに限らず多くの学生コンクールは自然さ、外連味の控えめさを評価する傾向にありますので、今年もそのような演奏が評価されたのではないでしょうか。また、日本語の語り口が巧みな演奏も高く評価されていました。これもある程度一般的なことで、日本語は「音の立派さ」と「言葉が言葉としてきこえる」ことを両立させにくい言語であるので、そこのブレンドがうまければいい演奏になりやすいです。そして、ここからは少し細かい話になるのですが、「部分的(瞬間的)な表現」を演奏に上手く取り入れている団体もあったように思います。音楽という芸術の持つ性質に依存していると思うのですが、ある部分(ある単語やフレーズの旋律、ある和音)に着目して、その部分のみ少し過激な表現をする(楽譜に書いていないことをあえてしたり、書いていることを過激にやったりする)と聞いている人を惹きつけやすいです。その表現は全体の統一感からある程度逸脱させても構わない、それどころか少し逸脱している方が良く聞こえてきます。もちろん根拠がないとわけわかめになりますので、根拠と説得力は必要です。これを音色やドラマによる全体的な表現と対比させて、「部分的な表現」と私は呼んでいるのですが、わかりにくいと思うので『僕が僕を見ている』の楽譜を用いて具体的にいくつか例をあげます。

・6小節目アルトの「死んでいるんだ」に着目し、その部分をシリアスな音色で歌う。他パートは5→6に向けてcresc.し、6に入ったらいきなり音量を控える

・65小節目「さあどこへ行こう」に着目し、あえて一段階音量を落とす

・74小節目下三声「うたおう」に着目し、マルカートで歌う

これらは全て楽譜には一切書いていませんが、曲の内容などからこのくらいはやってもいいだろうと推測されます。これらのような「部分的な表現」を上手く取り入れている演奏は評価されていたと思います。(これについては僕の好みもあるかもしれないのであまり信用しないでください)

なんか当たり前のことばかり書き連ねている気がしますが、一応まとめます。今回のコンクールで評価された演奏の特徴は、

 

まず音が磨かれていて、日本語がよく聞こえてくること。表現については、それらの技術的な取り組みの中で生まれたそれぞれの団の音色自体が全体を統一する表現になるから、それを素直に表現として採用していること。その自然な表現を損ねるような解釈や表現はなるべく避け、もしするのであれば部分的な表現に留めていること。

 

のようになるかなと思います。部分的な表現は今回はあまり評価には関わっていなかったのではないでしょうか。こうして書いてみると評価の観点自体は結構例年通りな感じがしますね。

ただ、私は今年のコンクールはやはり例年とは違う感じだったと思っています。まず一つは、表現のベクトルがはっきりした演奏はやはりなかったという点です。前の記事にこの曲は「表現の軸がはっきりしていない」みたいなことを書いたと思うんですが、今回はお仕着せの表現の軸、言い換えればある種の正解のようなものを発見する必要がなかったため、全体的な統一感はあっても方向性が明瞭な演奏はそんなになかったように感じました。もう一つは、それぞれの団体の持ち前の音色をそのまま出すことが良い表現に繋がっていたという点です。これはかなりいい傾向であると思っていて、各団体の音色の個性によって有利不利が付かない、またはそれによる有利不利を考慮せず演奏や審査ができるというのは、芸術をある基準によって評価する点において悪くないことなんじゃないかと思います。また、課題点もあったと思っています。それは、全体の統一感や自然さが極めて素晴らしかった故に、場面ごとのイメージが明瞭に、映像的に現れてくる演奏が少なかったのではないかという点です。この曲はイメージの方向性が楽譜からは与えられていないため、それをより自由に表現できるところが面白いと思っていたのですが、やはり困難だったようで(少なくとも僕は簡単にはできないです)、場面ごとのイメージが現前してくるような演奏は少なかったかなと思っています。これは部分的な表現と重なると思うのですが、全体の統一感との兼ね合いがあるので、コンクールという舞台ではやりにくかったということでしょうか。ただ、この曲はそれをちゃんとやった方が本質につながると思います。僕の所感をまとめます。

・全体的な統一感>方向性の明瞭さ

・各団体の持ち前の音色が活かされていた

・場面ごとのイメージをもっと強く持ち、表現した方が曲の本質に迫っていると思う

こんな感じです。

 

3. ラップの部分について

2までで言いたいことは言い切ったのでここらへんは完全に余談なのですが、Cパートのラップ部分はどの団体も頭を悩ませたのではないかと思います。僕自身もこれは横山先生のおちゃめなチャレンジだと思っていて、最後までどうやるのが良いかわかりませんでした。「さあ、あんたらやってみなさい!」みたいな。マジ困る。今回は地声でやるか歌声でやるかみたいなところをまず考えたのですが、僕は歌声でやっちゃった方が結構安牌だったんじゃないかなと思ってます。先程いった場面ごとのイメージ云々からすると地声でやるのがいいはずなのですが(おそらく横山先生の意図もそこにあると思われます)、そこに生まれるギャップとの兼ね合いを考えると歌声でやる方が個人的に好みです。でも多分地声でやった方がいいです。高校生ともなると立派な声で歌いますから、そこにあえて地声を放り投げることは様々なレトリックになりうると思いますが、聞いていてそれに成功している団体はそんなになかったかなあと思ってます。あんまり個別の団体の名を出すのもどうかと思うのですが、豊島岡さんはギャップが上手く表現の助けになっていて素敵だなと感じました。あと多分ですけどこういう時は目を瞑って聞いてもわかる表現にした方がいいです。僕は今回全部音だけで聞いたので、どの団がどんな動きをしていたかはさっぱりわかりませんので、特定の団体を批判するつもりはないことをご理解ください。

 

4. まとめ

まとめとしては、以前書いたこの曲はコンクール向きではないというのは変わらないということを再び申し上げます。やはりコンクールでは演奏を総合的に評価するしかないので、それに現れにくい部分をどう感じるかという問題点は依然残ったままであると思われます。ただそのような中でも全国の高校生はこの難しい曲に真摯に取り組んで、素晴らしい演奏をしてくれているので、本当に頭が下がります。課題曲を毎年新曲にするのは高校生には負担が大きいですが、かなりいい試みだと思っているので、その方針は変えずにやっていって欲しいと思ってます。

以下雑感ですが、学生のコンクールで「自然さ」を過剰に評価するのはちょっと怪しいと僕は思っています。おそらくそのような表現を主軸にしている団体に上手い団体が多いためそうなっているとは思うのですが。コンクールでの結果はわりと全国の学校の指針になると思うので難しいところですね。

 

長くなりましたが以上です。いつものように書きたいことをそのまま書きまくったので、わかりにくい部分も多々あると思うのですが、質問などコメントしていただければ出来る限りお返事します。

それでは今日はこの辺で