のんのんの無駄話

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Nコン課題曲の話(2020ver.)その1

こんにちは、のんのんです。

今回は2020年度Nコン課題曲について何かしらを書きたいと思います。

2020年度の高校の部課題曲は『彼方のノック』、作詞は辻村深月氏、作曲は土田豊貴氏です。この曲の情報を初めて見たときの僕の素直な感想は「また散文作家(詩人や作詞家ではない人)に作詞をお願いしたのか」というかなりネガティブなものでした。ぱぱっと調べたんですが、5年前くらいから高校の部の作詞は脚本家や小説家などに任せていることが多く(4/5でした)、Nコンサイドの目的はわかりませんが、流れとして散文を生業にしている人に作詞をしてもらうという方向に行っているのかなと思います。いざ取り組んでみるといい曲ばっかりだったのですが、「普通に作詞は詩人に任せろよ」みたいな思いをずっと抱えていました。しかし、これもある種現代の流れになってきているようですので(というよりもこの流れに何かしらの意味や価値を感じ始めてきたので)、うだうだ文句を言うのではなく、「なぜ散文作家に合唱曲の作詞を任せるのか」みたいなことをここらへんでしっかり考えてみたいと思います。つまり今回の記事のテーマは

テーマ1. 散文作家に作詞を任せること、またはそのような流れから生まれる特別な意味と価値を発見する

テーマ2. 2020年度Nコン課題曲を用いて「散文的な」合唱曲の取り組み方について考える

以上2つになります。どうぞお付き合いください。以下の議論で「Nコン課題曲」と表記した場合は高校の部の課題曲を指すことにします。高校の部に絞った主な理由は、私自身がNコン高校の部に比較的深く関わっており、まともな思考ができるんじゃないかと思っていること、小学校・中学校の部は主とする議論内容以外の要素をかなり孕んでいることの二つです。

 

1. 散文作家に作詞を任せること、またはそのような流れから生まれる特別な意味と価値を発見する

非常に素朴な考え方をすると、詩人ではない人に作詞を任せる理由は「合唱と他の芸術ジャンルを接触させてみる」ことだと思います。多くの合唱団(部活動やサークル、一般やプロ団体全てを含む)では、詩人と音楽家(もっというと合唱作曲家)によって作られた曲をメインのレパートリーとしています。そこに新たな芸術ジャンルを扱う人間を関わらせることによって何かしらが生まれるかもしれないと考えるのは至極真っ当なことだと言えるのですが、それによる現実的な範囲での影響(中高生の合唱人口の増加など)は、はっきり言ってごく些細なことであり、そこへの価値は特に感じません。合唱と他の芸術ジャンルを接触させることによる最も大きな意味は、それによって新たなジャンルが合唱芸術の内外に確立する可能性があることだと思います。Nコン運営がそのような意図を持っているとまでは断定できませんが、今回設定した「散文作家に〜意味と価値を発見する」というテーマに対する回答はこれになります。しかし、それは未だに達成されていません。実際にここ数年の課題曲は始めに述べたとおりいい曲ばかりだったので、何かしら新しいものやいいものが生まれていることは間違い無いと思うのですが、それでもなお既存の合唱曲の範囲を突き抜けてはいないように感じました。というのも、過去のNコン課題曲の中で、散文作家による作詞の曲は(多分)全て「散文作家が書いた詩」をもとに作曲されていたからではないかと思っています。(平成26年度の「共演者」がとても怪しく、かなり迷いましたが詩に分類できると思います)

ここで一旦「散文」と「詩」の定義を確認しておきましょう。「詩」はごく単純に、「韻律や定型を用いて表される文学の形式」と定義します。かなり雑な定義になりますが、今回の試論においてはおそらくこれが最も分かりやすく、的確であると思います。「散文」の定義はその対義語とします。すなわち、韻律や定型を持たない文学の形式ということです。そしてそれぞれを生業にする文学者たちを「詩人」や「散文作家」と呼びます。言うまでもないことですが、既存の合唱曲の殆どが散文ではなく詩を歌詞として用いています。というのも、韻律や定型という詩の持つ性質が、楽式にある程度従って、言葉に旋律や和声をつける「作曲」という行為に適しているためです。また、詩はそもそも朗読されてきたものですから、音声にした時の美的感覚にも基づいて洗練されてきました。加えて合唱の起源も大雑把に言って詩の朗読の派生なので、詩と合唱には深い結びつきがあります。現代の日本の作曲家も合唱曲を作るときは当然歌詞には詩を好んで採用します。わざわざ散文を選んで曲を作ることはアバンギャルドな営みと言って差し支えないと思います。

私がまず何を言いたいかというと、合唱曲の歌詞に詩が選ばれていることにはちゃんとした理由があり、特別な理由もなく散文を選ぶことはないということです。過去Nコン課題曲の作詞を担当した散文作家は皆、普段作っていらっしゃるであろう散文ではなく、詩を歌詞として書いていました。そのため奇抜な曲が誕生することもなく、いわゆるスタンダードな曲が課題曲になっていました。ただこの限りにおいて、つまり「散文作家による詩」が歌詞になっている場合においては、散文作家に作詞をお願いすることに対して大きな意味は見出せないと思います。もちろん個人にスポットを当てると意味合いは異なります。しかし、それでは「リリー・フランキー氏やつんく氏による作詞」への価値や意味は見出せても、「散文作家による作詞」に大した価値や意味はないということになってしまいます。

ここまでの話をまとめます。

Nコンはここ数年、散文作家に作詞を任せている

Nコンの作詞を担当する散文作家は、全員が散文ではなく詩を課題曲の歌詞として作成していた

そのため「散文作家による」という文脈よりも「つんく氏やリリー・フランキー氏による」という文脈が強調され、この限りにおいては、いい曲が生まれ続けてはいるものの、その曲は既存の合唱芸術の範囲を超えることはない

ここにおいて新たな問いが生まれます。それは、ここ数年の流れの中で、新たなジャンルが合唱芸術の内外に確立する可能性を見出せるのはどのような場合なのか、という問いです。その答えは、「散文を歌詞とした合唱曲」が課題曲として出来上がった場合、というものになります。

さて、長くなりましたがここからが本題になります。今年の課題曲『彼方のノック』の歌詞は散文です。なんとなく詩っぽく見えますけど、ほぼ完全に散文です(これについてはその2で詳しく説明いたします)。Nコン課題曲の歴史の中で散文による合唱曲が生まれたのは初めてなんじゃないでしょうか。もちろん視点をNコンから広げてみると、長い合唱の歴史の中でそのような曲がなかった訳ではありません(僕自身も何曲か散文を歌詞とした合唱曲を扱ったことがあります)が、多くの人間が歌うことになるNコンの課題曲がそうであるというのはそこそこ大きな影響を及ぼすと思っています。すなわち、これを契機に散文を歌詞にした合唱曲や、散文を扱おうとする作曲家が増加していく可能性があると感じています。すると、これまでは「特殊」なものだった、散文を歌詞とした合唱曲があるひとつのジャンルとして確立してくるかもしれません。合唱曲が「詩曲」と「散文曲」というような感じで分けることができるようになるということです。その2で述べることになると思いますが、散文への曲の付け方と詩へのそれは異なる部分が結構あり、演奏する我々の立場からしても解釈のアプローチの仕方が異なってくるため、散文曲がジャンルとして確立するということは合唱界に一定の影響を及ぼすように思います。散文曲が生まれることによる既存の詩曲がさらに相対化されることも、もしかしたら意義のあることになるかもしれません。

以上がここ数年のNコン課題曲のムーブメントから私が感じたことになります。ここで一旦区切れ、テーマ2については次の記事に書きます。本当に僕が考察した通りになるであろうと自信を持って言うことは流石にできません。なぜなら合唱とは本質的に詩を扱うものであると考えられるからです。また、合唱を評価する場合、テクストに散文を選んだものよりも詩を選んだものの方が高い評価を受けやすいのは歴史が長いぶん当然であるので、そこでわざわざ散文を選ぶ意味も特にないとも思います。しかし、散文曲ならではの意味内容と音素材の一致が果たされるなど、散文曲で詩曲とは異なり、かつある程度普遍的な美を表現できることがわかった場合、またはその手法が確立された場合はその限りではなく、新たな合唱芸術のジャンルが生まれることになるのではないでしょうか。詳しくはその2で書きますが、今回の課題曲からそのような兆しを感じたため、考えを深めてみました。以下は補足的な内容になります。

「散文曲」について、似たようなムーブメントはどこでも起こっていると思います。しかし、ドイツ語やフランス語、ラテン語などの言語は散文でもある程度どうしても韻を踏んでしまう(格変化のため)ので、ここで僕が勝手に作った「詩曲」「散文曲」という分類は困難である、ないしは別の文脈を伴う可能性が高いと考えています。英語は、韻からはある程度自由だと思うのですが、リズムや抑揚といった観点から同じことが言えるのではないかと思ってます。つまり、今回僕が議論した内容についてはとりあえずのところ日本語の合唱曲に限ると考えていただきたいです。

それでは今回はこの辺で

次の記事に続きます