のんのんの無駄話

言いたいことを言いたいだけ言いたい

合唱部のコーチの話(評価される演奏、良い演奏とは何か?)

こんにちは、のんのんです。

2017.8年あたりから、中・高の合唱部、大学のサークルにコーチとして呼ばれることが多くなりました。その活動や研究を通して考えたことがそろそろまとめられそうな感じになってきたので、今回は、コンクールで結果を出したい合唱部・サークル、特にその指揮者(顧問)に向けた、コンクールで継続的に結果を出すために大事なことを書きたいと思います。

もちろん、コンクールで結果を出すことだけが全てではありません。ただ、今回は書きやすくするためにそこにスポットを当ててお話しさせてもらいます。

 

0.はじめに

コーチという仕事の都合上、指揮者の代わりに練習を見たり、練習の中でコメントをしていくみたいな関わり方が多くなります。つまり、基本的には私と生徒の間でコミュニケーションを取るのですが、どっちかというと生徒より指揮者に言いたいことがたくさんあります。ただ、基本的にコーチの仕事は指揮者を指導することではなく合唱団を指導することですので、あれこれ言うのは控えるようにしています。一方で、部活動・サークルという特殊な形態の合唱団においては、指揮者の成長が結果に直結します。そのため、冒頭にもある通り、今回は普段から言いたくてたまらない、指揮者が気をつけたほうが良いことを書きます。

ここ数年いろんな学校の合唱部やサークルと音楽をさせてもらっていますが、強豪には共通してできていること、言い換えれば、思うような結果をなかなか出せていない学校には共通してできていないことがあるように感じています。これらをお伝えできれば幸いです。

 

1. 最優先ですべきこと

コンクールとかに関わらず、指揮者がまず絶対にやっておかなければいけないこと、それは、

研究をして、耳を鍛える

ことです。

例えば、コンクールの目的が「全国大会出場」なのであれば、全国大会に出場できる演奏の水準を理解しておく必要があります。逆にいうと、コンクールがまともに機能している場合、全国大会の水準の演奏のイメージ・ビジョンが指揮者にない団体が、たまたま以外で全国大会に行くのは不可能だと断言できます。研究なんて偉そうに書きましたが、やり方は単純で、

とにかく演奏を聴きまくって考えまくる

のが第一歩だと思います。コーチ先の生徒のみんなにもよく言うんですが、演奏を聴く習慣をつけた方が良いです。指揮者は特に。よっぽどのことがない限り、耳以上に演奏が育つことはまずありえません。研究をして耳を鍛えることが最優先です。指揮者がこれを怠ったらどんなに練習をしても、どんなにいい生徒たちでも、結果は出ないと思います。時間の許す限りとにかく一生懸命聴いて、必死になって研究しましょう。コンクールみたいに評価される場で結果を出すためには、目標とする演奏の水準をイメージし、理解し、そこにたどり着くために何が必要かを見つけ出すこと、この壁をまずは超えなくてはなりません。

 

2. 強豪校の演奏の技術水準

こないだの全国大会もそうでしたが、金賞校上位3校とそれ以外には技術的な差が明らかにありました。ここ数年そうですし、これからしばらくはそうなると思います。ここでは僕の経験や研究から考えた、全国大会常連や全国大会金賞校ができていて、中堅レベルの学校ができていない技術、言い換えると、あと一歩成長して全国大会に出るために必要であると考えられる要素の話をします。1の最後で言った、「たどり着くために何が必要か」を、全国大会を例に説明するということになります。

僕は、現段階では以下の4つが強豪になるために必要だと考えています。指揮者には、以下4つを合唱団に伝えて磨いていけるほどに理解できていることが必要であると思っています。

①基礎技術としての「レガート」を身につける

②いい声よりもいい響きを追求する

③楽譜は絶対という癖をつける

④表現をしようとする

一つずつ説明します。

①基礎技術としての「レガート」を身につける

発想記号でたまに見る"legato"ですが、ここで言うレガートは表現技法ではなく、歌唱の基礎技術としてのレガートを指しています。結構疎かにしている団体を多く見かけました。レガートは基礎中の基礎、歌唱の一つの形態である合唱の根本にある大事な概念ですので、徹底した方がいいです。上手いところは「レガート」という言葉をあえて使わなくてもできていたりします。息の流れとかよく言ったりしてます。

「身につける」とは書きましたが、どちらかというと身につけるだけではなく、

「基礎技術としてのレガート」という概念を知り、レガートは基本的にいつでもやる必要があると心得る

ことの方が大事です。レガートは徹底、とにかくレガートです。

 

②いい声よりもいい響きを追求する

(ここの項は書き振りをとても悩みました。最終的に訳のわからない感じになっていたら本当に申し訳ないです。伝われば良いのですが不安です)

いい声というのはどの団も意識して練習しています。ただ、誤解を恐れずにいうと、いい声はそこまでいらないです。合唱の音の到達点は、基本的にはいいハーモニーを作ることです。いいハーモニーを作るためにはいい響きが重要で、いい響きを作るためにいい声が必要になることが多いという考え方が正しいです。つまり、意識すべきはいい響きの方です(別にいいハーモニーの方でもいいです)。なんかすげえ当たり前のことを言ってるように感じられると思うのですが、これを意識して、練習でしっかりと響きとハーモニーを磨こうとしている団はめちゃくちゃ少なかったです。ほとんどの団はいい声だけを追求しすぎている結果、ちゃんとハモっていないことが多いです。特に高校生や大学生なんて声が出るのが楽しくて仕方がない時期ですからマジで危険です。よく「声を飛ばそう」とか教わると思うのですが、誤解を招くのであまりいい表現ではないと思います。声は出すとか飛ばすのではなく、響かせる・響きを広げるという考えの方がおそらく良いです。そして、その響きをみんなで追求することで良きハーモニーが生まれます。いい声を出すことだけではなく、いい響きをみんなで作って、ハーモニーを生む感覚を掴むと(もっというと楽しめるようになると)、合唱団のレベルはかなり上がります。なんとなくハモってる団はこの世にたくさんあるんですけど、響きを追求してしっかりハモってる団はそんなにないです。

ハウツー的になりますが、アンサンブル(全体合わせ)練習は、可能な限り響きを追求する時間をかけられると良いです。声は個人の問題ですが、響きとハーモニーは全体の問題ですので、アンサンブル練習で磨くのが最も効率が良いためです。全体の問題なので本当にシビアな話になります。こないだの全国大会でも「響きとハーモニーをしっかり追求しているな」と思える団は少なかったので、相当難しいのだと思います。特に混声は構造上かなり大変ですので、気合い入れて頑張ってください。僕もどうやるかは研究の途上で、日々試行錯誤しています。

いい声もそこそこ必要だけど、いい響きを追求するところ、いいハーモニーを作るところまで意識することが大事です。

 

③楽譜は絶対という癖をつける

これはコーチの仕事を始めてから知って驚いたのですが、楽譜通りに歌うことへのこだわりが少ない団体がほとんどでした。マジでびっくりしました。おくびにも出しませんでしたが、何回かキレかけました。基本的に楽譜は絶対です。楽譜に書いていることを全部やるのは最低限だと認識した方がいいと思います。そして、指揮者が思っているよりも歌い手は楽譜を読んでないし、楽譜通りに歌ってないです。仮に楽譜をしっかり読んでその通り歌っていたとしても、楽譜通り聴こえているかは別の問題です。多くの合唱団は、楽譜通りに歌う練習にもっと時間をかけた方が良いです。ゴールは楽譜通りに聞こえることです。テンポとアーティキュレーションとかについてはやりやすいんですが、強弱を楽譜通りやるのは思ってるより難しいので、気を付けておくといいと思います。

 

④表現をしようとする

③とほぼ同じことを言うことになるかもしれないのですが、第一歩として、楽譜に書いてあることに意味づけをする作業をすると良いです。何も考えずにただ楽譜通りに歌うというのは結構苦労するうえにメンタルが削られるので、「なぜここでpなんだろう?」「なぜこの歌詞がこういう和音なんだろう?」とか、楽譜に書いてあることを歌詞を含めて解釈し、自分たちなりのロジックを作っておく作業が大切です。また、この作業を怠ると、いくら楽譜通りに歌っていたとしても表現の統一性が崩れてしまい、チグハグな演奏になってしまう可能性が高いです。経験論となり誠に申し訳ないのですが、特別に変なことをしなくても、楽譜に書いていることを解釈し、自分たちなりに意味づけをして、楽譜通りに歌う。これだけで十分に豊かな表現をすることができますし、十分に自分達らしさが出せます。楽譜に書いていないことを一切やらなかったとしても、です。コンクールに限定するとそこから先は正直やってもやらなくてもという感じです。

表現、すなわち解釈と意味づけのコツは「印象から入る」ことです。表現のための印象からのアプローチメソッドは僕が去年あたりに思いついたもので超自信があるのですが、今回の本題とズレるので細かいところはいつか気が向いたら書きます。

楽譜通りの演奏をするために、楽譜に書いてあることを解釈し、意味づけをする。そうすることによって演奏に統一性が生まれますし、楽譜通りやっているだけなのに自分達らしさを出すことができると思っています。

 

以上の4つをできている(磨いている)ことが、コンクールで継続して結果を出している強豪に共通していることだと考えています。コンクール強豪になるために求められる技術水準です。そして、繰り返しますが、これらを指揮者が理解していることがまず求められます。

おそらく、現段階ではこの4つのことについてちんぷんかんぷんだったり、なんとなくわかるけどいまいち掴みきれていないという方もいらっしゃると思うんですが、1で言ったように、研究をして耳を鍛えれば、「こういうことを言っていたのか」とわかるようになると思ってます。とりあえず演奏を聴いて研究する際に、以上4つに気をつけてみてください。それだけでだいぶ見えてくる(聞こえてくる)ものがあるはずです。そして、それが第一歩です。指揮者が理解して感覚を掴むことができていないと、歌い手に伝えて磨いていくことは不可能です。

書いてみて思いましたが、言っていることはなんら新しいことではなく、本当に普通のことです。その一方で、実践する、こだわり続けることはかなり難しいと思っています。そのため、指揮者がこれら4つのことをちゃんと理解して、自分のものとなるまで研究することが重要であると思います。

 

3. 練習のテクニック

ここからはおまけ的内容になりますが、練習をどう進めるとよいか、練習時の注意点について、僕の考えをご紹介します。ここまでと同様に、ここ数年のコーチの経験からのお話になります。

・無駄な練習をしないように心がける

当たり前なんですけどこれが全てです。無駄な練習をすればするほど結果は遠ざかります。ここでいう「無駄な練習」とは、「なぜその練習を今やっているか?」を明確に説明できないということです。求められる演奏の水準をイメージし、そこにたどり着くビジョンを作れているのであれば、自ずと必要な練習は見えてくるはずです。逆にいうとイメージやビジョンを作らないうちに練習しても、指揮者のそのときの気分とか気まぐれに生徒を付き合わせているだけになるので良くないです。

 

・一気に色々要求しない

人間の集中力は続かないしキャパシティはそこまで大きくないです。例えば「ここのクレシェンドをしっかりやりましょう」と言うなら、クレシェンドの出来だけに集中する(集中してもらう)べきです。クレシェンドをちゃんとやる練習をしているはずなのに、音程がどうとか発語がどうとか果ては別のところの指摘をしたりする指揮者の人を沢山みてきました。まず指摘したことができるようになることを最優先にし、他のことは後回し、最優先事項ができるようになってから進みましょう。その時気になったダメなところを指摘しまくる練習は指揮者のオナニーに歌い手を付き合わせているだけです。気になることがあっても要求事項じゃないならぐっと我慢することも大事だと思います。時間は限られているので、優先順位をしっかり考えて決める必要があります。

 

・良いところはちゃんと良いと言う

何かを指摘して、できていたらできている、上手いなら上手いと伝えるのは、練習においてとても大切です。特に、明確な結果がその場で出ない営みにおいて、その重要性はかなり上がります。しかし、ちゃんとやっている指揮者はかなり少ないように感じています。ダメなところを指摘しているだけでは「ダメじゃない」演奏にしかならないと僕は思います。「いい」演奏をするなら、歌い手になにが「いい」のかをちゃんと伝えて、教えていかなければいけませんし、「いい」を積み重ねていく必要があります。

 

さて、長々と書きましたが以上になります。指揮者に向けて書いた内容ですが、もちろん歌い手側も意識しておくといいことでもあります。部活動・サークルという合唱団の仕組み上、指揮者が身につけた方が手っ取り早いってだけで、歌い手が全員意識できているなら問題ありません。一般の団体とかでそういう素晴らしい団体はいくつかあります。

最後に言い訳みたいなことを言うのもアレなのですが、僕も研究の途上なので、そもそも内容が間違っていたり、抜け漏れがあったり、伝え方をもっと良くできたりするんじゃないかといつも不安です。もしよかったらコメントとかで皆さんの考えを教えてくれたら嬉しいです。反対意見やご指摘は特に大歓迎です。一緒に考えましょう。

そして、ここまでお読みくださったみなさんならとっくに気づいておられると思うのですが、コンクールで勝てる演奏の技術水準は、普通のいい演奏の技術水準とほぼ同じです。コンクールのための取り組みと、いい音楽のための取り組みは一切矛盾しないと僕は考えています。

また、学生のコンクールはおおむねちゃんと機能していますので、参加団体(の指揮者)がしっかり研究して臨むことで、全体のレベルを上げていくことができると考えています。

 

久しぶりに自分の考えをまとめるいいきっかけになりました。この記事を読んで興味が出たら僕をコーチに呼んでください(宣伝)。

それでは。

シャニマスの話 その①

こんにちは、のんのんです。

シャニマスの話をします。前置きは割愛します。とにかくみんなシャニマスをやろう。

 

①樋口円香に魂を揺さぶられる

2020年12月25日に友人と一緒になんとなくシャニマスを始めた。きっかけはよく覚えていないんだけど、多分Twitterとかでなんかの二次創作画像を見て琴線に触れたんだろう。顔面と声が好みだったので、運命の出会いガチャで樋口円香を引いてスタートした(樋口円香を当てるまでかなり時間がかかった。円香以外の全pssrを当てた後に出た。余談だけどリセマラも色んなキャラが見れて楽しかった)。

f:id:nonnonchorus:20210530225704p:image(樋口円香の画像)

一緒にいた友人は小宮果穂と芹沢あさひに惚れ込んでた。(そいつはロリコンではない)

W.I.N.G編にて初めて樋口円香をプロデュース。trueは見れなかったけど、コミュの「掴もうとして」と「心臓を握る」でハマった。冗談じゃなく魂を揺さぶられた。可愛くて敬語を使う女の子に「本当にダメな人」って言われたいし、努力が怖い、本気を出すのが怖い、試されるのが怖いと言いながら頑張る人間を応援したいって心の底から思った。f:id:nonnonchorus:20210530225753p:image(「掴もうとして」の画像)
f:id:nonnonchorus:20210530225800p:image(
「心臓を握る」の画像)

この時点で俺はプロデューサーになってたんだと今は思う。数日間円香のことしか考えられなかった。円香の心に近づきたい、というか彼女を理解したかった。円香と本気で向き合いたかった。会社が休みの年末でよかった。俺は敬語で少し冷たい感じだけど世話焼きで優しいキャラと秀才の努力型のキャラが大好きなんだ(そのキャラの近くに天才キャラがいると尚良い)。とにかく樋口円香にハマった。長瀬湊(初恋の人)と七咲逢(嫁)くらいハマった。毎日毎日Twitterやpixivの検索窓に「樋口円香」と入れては二次創作を漁ってニヤニヤしていた。一方で樋口円香以外にはあんまり目を向けておらず、ユニットどころか楽曲すらよく知らなかった。樋口円香(担当)ともぎたて♡にーちゅできていれば満足だった。友人はストレイライトの女になっていた。

 

②委員長の配信で「シャニマス」を知る

ただ、年末年始とっても暇だったのでシャニマスでネットサーフィンしてたら、にじさんじの委員長のアーカイブを見つけた。折角だしと思ってなんとなく見始めたんだけど、これがシャニマスにハマるきっかけの一つになった。委員長は23人全員(当時はSHHisはいなかった)をプロデュースしていて、どのアイドルをプロデュースしている時の委員長も、もれなく全部キモかった。キモくて最高だった。

f:id:nonnonchorus:20210530225908p:image(キモイ委員長の参考画像)

委員長のおかげでシャニマスの「深さ」に触れることができた。シャニマスはここまでストーリーを作り込んでいるのかとびっくりした。ストーリーというかアイドルの作り込みがすごい。アイドル達をキャラクターじゃなくて人間として描いている(キャラクターじゃなく人間として感じられるように描いている)から、プレイヤー(プロデューサー)は彼女達のことをもっと知りたいと思えるし、心も揺さぶられるんだと思う。正直ここまでとは思ってなかった。繰り返しになるが委員長のおかげで、アイドルをキャラクターとしてではなく、人間として描く「シャニマス」を知ることができた。

委員長の配信で特に印象に残ってるのは、初回の運命の出会いガチャと、あさひの感謝祭のコミュをやってる回と、「薄桃色」の感想を話している回。「薄桃色」は委員長が感想を話し始めたあたりで自分で読まないといけないという直感が働いて、動画を閉じてすぐ読んだ。そしてちょっと泣いた。甘奈の「いい時だけ一緒なんじゃなくて……」のセリフで泣いた。

f:id:nonnonchorus:20210530225951j:image(泣かない人がいないセリフの画像)

泣いたし、ストーリーに感動した。結論を出さずに有耶無耶にするクソみたいなオナニーストーリーが蔓延る昨今で、ちゃんと答えを出すストーリーを作るシャニマスは信用できると確信した。俺は何様なんだろう。

とにかく委員長の配信のおかげで283のアイドル達とシャニマスのストーリー、シャニマスの凄いところに触れることができた。恐山とARuFaとのコラボも面白かった(ついでにこのコラボのおかげでARuFaとオモコロと匿名ラジオを認識してどれも好きになった)。

その頃友人は「ふゆめい」とか「あさふゆ」とか訳のわからない単語を発するようになっていた。あと多分当時「明るい部屋」のコミュがやってて、イベントとかよくわからなくて読み過ごしたのを後からめちゃ後悔した記憶がある。

 

③シャイノグラフィとの出会い

コツコツデイリーをこなし、ひたすらコミュを読み、毎日二次創作を漁り(「ふゆめい」と「あさふゆ」の意味を理解できるようになっていた。検索もしてた。あと確か円香の前で自殺したいみたいな二次創作が流行ってた)、アイドルの顔と名前を覚えて、trueも運が良ければちょくちょく攻略できるようになっていたあたりに、シャニマスまとめサイトでこんなレスを見つけた。

パステルより繊細で モノクロームより純粋で プリズムより多彩で』って歌詞考えたやつ天才だろ

シャイノグラフィの歌詞へのコメントだった。この一節になぜかめちゃくちゃ心惹かれて、すぐに買って聞いた。シャイノグラフィいいじゃん。本職のせいで斜に構えていたためか、その時までは正直シャニマスの楽曲にはあんまりピンときてなかった。そもそもちゃんと聞いてすらいなかった(まずクラシック以外の音楽にあんまり興味がない)。でも、シャイノグラフィを皮切りにいろんな曲を聴くようになって、好きな曲がたくさんできた。特にトライアングル、太陽キッス、Bloomy!には出会えてよかったと思う。イルミネの曲は「エモい」、放クラは「楽しい」、アルストは「いい……」って感じ(誰かわかってくれ)。シャニマスのどの曲もそうなんだけど、イルミネとアルストの曲は歌詞がいい。特にアルストの作詞担当の人は天才なんじゃないかと思ってる。

音MADとか(お天気ヤクザが好きだった)をニコニコで漁っていたら、やたらかっこいい顔をした女の人がサムネになっている動画を見つけた。

f:id:nonnonchorus:20210530230042p:image(かっこいい女の人の画像)

プロデューサー感謝祭のストレイのWandering Dream Chaserの映像だった。マジで衝撃だった。アイドルの、しかも声優のライブなんてそこまで大したことないだろうと思ってたのは大間違いだった。自分の中で劇的なパラダイムシフトが起きた。プロデューサー感謝祭の演奏を全部観た。全部よかった。どのユニットも本当に良かった。ただ、その中でも放クラとストレイには脱帽だった。マジかこの人たち。そんとき放クラがやったのはビーチブレイバーだけど、太陽キッスをライブで聴きたかったし、ストレイのパフォーマンスを生で見たかった。そこに、「『THE IDOLM@STER SHINY COLORS 2ndLIVE STEP INTO THE SUNSET SKY』現地チケットゲーム先行 受付開始!」のお知らせが舞い込んできた(俺のところに舞い込んできた訳じゃないんだけどたまたまちょうど気づいた)。

その頃友人は凛世と果穂に夢中になっていた。「2人の匂いを交互に嗅いで凛世ちゃんと果穂ちゃんの交互浴をしたい」と言っていた時は付き合いをやめようと思った。

 

その②(ライブ感想編 前編)に続きます。

『彼方のノック』歌詞解釈の話

こんにちは、のんのんです。

今回は、2020年度Nコン高校の部課題曲『彼方のノック』の歌詞を解釈してみようと思います。タイトルにある解釈の「話」というのは、今回の記事では僕の解釈を結論としてただ書くのではなく、どのように歌詞を読んでいるのか、どのような道筋で物事を考えるのか、自らの解釈に至るまでにどのような過程を経ているのかなどを紹介したいという意味合いを持っています。(あとブログタイトルを全て「〜の話」に統一したいという気持ちもあります)例によってセクションに分けて書いていこうと思いますが、実際の解釈の部分は多分記事を複数に分けると思いますのでご理解ください。

 

1.この記事を書こうと思った理由、誰に向けてこの記事を書いたのか

2.歌詞の解釈の話をするにあたってまず記しておきたいこと

3.実践

 

1.この記事を書こうと思った理由、誰に向けてこの記事を書いたのか

以前書いた「表現と詩の話」という記事で、もっと歌詞をちゃんと読もうみたいなことを書き、「Nコン課題曲の話(2020ver.)」で、今回の歌詞は散文(百歩譲って散文詩)だからいつもと違うよねみたいなことを書きました。Nコンの話の続きとして、こういう曲に取り組むときにはどうしようかみたいなことを書きますと言ったんですが、それはまあいずれ書くとして、とりあえず実際に『彼方のノック』の歌詞をガッツリ解釈してみようかなと思いました。各論にちゃんと取り組んでから総論を語る方がわかりやすいかなと。また、こういうことをやっておくのは曲がりなりにも修士文学を取得した者の役目なのかなとも少し思っています。

この記事の対象は、コロナウイルスのため練習がなく暇にしている高校合唱部員を想定しています。アンサンブル練習ができず、不安を感じているでしょうが、僕は曲についていろいろ考えを巡らせるのも大いに効果のある練習だと思っています。あれこれ考えるだけなら外に出なくてもできますしね。合唱指導の場面で、「素直に感じたまま歌おう」とかいうアンポンタンがごく稀にいるのですが、ある程度それが正しいことは認めるにしても、それだけで許されるのは小学生までで、中高生にもなったら真剣に歌詞に向き合ってきちんと考え、自らの感受性を知性と結びつけて言葉にし、表現に持っていけるようにすべきです。高校生はそろそろ自分で自分の音楽性を管理できるようになってくる時期に入ってるはずですので、楽譜の読み方や楽典や和声を理解するのと同時に文学の解釈の仕方も身につけておくと今後の合唱人生は捗ると思ってます。というわけで暇している高校生はぜひ読んでみてください。面白くないかもしれませんが。

 

2.歌詞の解釈の話をするにあたってまず記しておきたいこと

大きく分けて二つあります。一つ目は僕の「偏見」についてです。持論ですが、人間は物事を自分の考えたいようにしか考えることができないと思っています。文学に関してはある程度自分の読み筋に従ってしか読むことができないと言えます。そこで、解釈をするにあたって今回僕がどのような偏見を持ってこの歌詞を読んだのかを紹介しておきます。

僕はNコンの曲を演奏するときに幾つかのキーワードを重視します。Nコンの課題曲は中学生や高校生といった狭い範囲の世代を対象にしているので、曲の内容の方向性はある程度似通っています。高校の部に関して言えば、「青春時代」(厳密にいうと大人の考える青春時代)を対象に作詞作曲されているわけですから、「青春」を題材にした内容に寄っています。「青春」について重要なイメージはいくつもあると思うのですが、一般的に題材としては「痛み」「葛藤」「もがき」「勘違い」「気づき」「成長」などのうちいくつかに絞られてきますので、これらが曲の内容に深く関わっていると仮定して僕は曲を解釈します。今回も基本的にはこれらのイメージに沿って歌詞を解釈していくつもりですので、みなさんもそのつもりでお読みになってください。

もう一つは解釈の手法についてです。一般的な文学解釈においては作者のバイオグラフィーや他の作品、時代性の考証やその他諸々のめんどくさいことを調べておくのですが、今回は「演奏のための」歌詞解釈でありますので、重視されるべきは論理的正当性から生まれる説得力だと思っています。ゆえに、自らのうちに根拠を見出すことを目的にするので、権威主義的な方法による解釈はあえて避けたいと思っています。また、基本的に広義での印象批評をメインにやります。理由は演奏に応用でき、かつ誰にでもできる範囲での文学解釈を実践として紹介したいからです。加えて、この歌詞についている音も解釈のために利用したいと思います。

 

3.実践

これをお読みになっている方は楽譜を持っていると思いますので、全文をまとめた引用はしません。楽譜を見ながら読んでいただければと思います。

長い長い、あの廊下のことを考えている

「長い長い」と二回繰り返しているのはおそらくただの強調であり、他には特に意味を持たないと思います。強いて言えば、楽譜を見てみるとdim.がかかっていますから、主人公はこの長さをマイナスに捉えているのではないかという印象を受けます。その後の「、」(読点)について、詩歌に句読点は用いないのが普通とされているため、通常の詩であれば注意して読むのですが、今回の歌詞の形式は特殊であるため、そこまで意識する必要はないかなと思います。筆者の手癖くらいに考えておいていいのではないでしょうか。「あの廊下」とありますから、「廊下」は「この廊下」や「その廊下」とは違い、現実の距離が遠い場所、又は非現実(想像の中)に存在していると考えて間違いないでしょう。また、廊下はなにかしらの抽象的概念を象徴していると考えるのが妥当です。廊下というと移動に使うための物ですから、ここで予想できるのは「人生」や「道のり」、「目標への過程」などでしょうか。「考えている」というのはごく当たり前に説明すると、「考える」という行動が現在行われているということを示します。また、「〜している」と表すことで、この行為の現実性もある程度強めています。そこから、この詩が主人公の個人的な(個人的に重要な)内容についてものであるということ、主人公にとって「廊下」のことはすぐに答えが出るような単純な問題ではないのではないか、という考えに繋げることもできます。

わたしは一人、突き当たりの扉を目指す

「わたし」がこの歌詞の主人公だそうです(作者談)。平仮名で記載しているのは次の行の「私」と区別するためでしょう。これについて詳しくは後述します。「突き当たりの扉」がこの曲の最大のモチーフになります。「扉」から連想されるものは様々だと思いますが、こういう風に多くのイメージを象徴しうる物や概念が出てきて迷ってしまう場合は、出来る限りそれについてシンプルに考えたほうがかえって読み筋を立てやすくなると思います。例えば、「扉」からは「未来への出発点」や「新しい世界への入り口」、「行手を阻む壁」などいくつものイメージの可能性があり、この段階ではどれに絞っていいかわかりにくいと思いますが、ここであえてあまり具体的なものに絞らずに、ごく単純に「出入り口」、「開閉するもの」くらいのシンプルなイメージに留めておくと、ある程度解釈が広がりすぎず、逆に狭めてしまうこともないので良さげです。もちろんこれだけでは演奏表現にはつながりませんから、読み進めていくうちに広げていく必要はあります。その扉を主人公は「目指す」わけですが、Nコンの歌詞を解釈するにあたって、「一人」という言葉には気をつけたほうがいいです。この類の曲において、主人公の言う「一人」や「孤独」はおおよそ勘違いであって、実は一人じゃない、ないしはみんなそれを感じているということに主人公が気づいてめでたしめでたしとなるパターンが多いです。それはそれとして、ここで主人公が言う「一人」とは

1.扉を目指しているのは「わたし」一人だけ

2.扉を目指している人は沢山いるけど、それぞれ別個に、一人一人目指している

以上のどちらを意味しているのかこの段階ではわかりませんが、楽譜を見ていると、この「一人」の部分で初めてdivするので、個人的には2の解釈寄りです。それを主人公が自覚しているのかしていないのかはここでは定かではありませんが、とにかくここからは主人公が感じている孤独と、一人でも何かを成し遂げようとする主人公の意志の強さを読み取ることができますので、ここの10小節から始まるcresc.の意味合いとしては、物語の展開を示すことに加えて、主人公の決意の表れととっても妥当であるような気がします。

私は私の命を使って

僕は僕の体をなげうって

懸命に駆けて、駆けて、駆けて、手を伸ばす

Nコンの歌詞では登場人物の性別を決めてしまうことは基本的にありません。「私」「僕」と表現することで、誰もが扉を目指しているのだということを示しています。加えて、「私は私の」「僕は僕の」としていますから、やはり上記の2の解釈の方が筋が通っているように思います。「命」「体」は我々人間にとって最も重要なものであると考えられます。「わたし」(というか「わたし」たち)は、これらを消費して(「使って」)、または危険に晒して(「なげうって」)まで扉を目指しているということなので、その行為が本人にとってたいへん重要なことであるというのが読み取れます。「懸命に」「駆けて」「手を伸ばす」とあるように、主人公はどうやら急いでいるようですが、そもそもなぜ主人公はこんなに必死に、それも急いで扉を目指しているのでしょうか。ここに今回のテーマがあると僕は思っています。つまり、

・「突き当たりの扉」は何を表しているのか

・主人公が扉を目指している動機

この二つの謎に答えを出そうとする試みが、今回の課題曲の表現にとって最も重要な取り組みになると思います。演奏する団体によってこの部分の解釈は分かれると思いますが、その違いが実際の演奏に大きく現れることはないでしょう。というのも、文字だけで考えるのとは違って、実際の演奏の表現はある程度音に規定されますし、扉が何を表そうが主人公の動機がなんだろうが、表現の全体的な方向性自体は今回の曲ではそんなに違ってこないからです。しかし、曲に取り組むにあたって、歌詞自体の主題を明確にしておくことは練習や演奏の助けに必ずなりますので、この二つのテーマについては考え続けることをお勧めします。

21小節のdim.はrubato的にrit.するのがフレージングでは普通なのですが、曲の解釈的にはin tempoの方がふさわしいと思ってます。ritするにしても、少なくとも21頭の「ば」には推進力を持たせた方がいいと思います。

何度も何度も

どれだけ引いても押しても

けれど扉は閉ざされたまま

ここでは主人公が一心不乱に扉を開けようと試みている様が描かれています。歌の方ではパートが入り混じっていますが、それぞれの(扉を開けようとしている一人一人の)試行錯誤の様を表しているのでしょうか。なぜ「閉ざされたまま」なのかはこの連の後半に示されていると思います。

光の射さない窓 道のり

わたしを傷つけたすべての人

「光の射さない窓」「道のり」は単純に見ると情景描写なのかなと思うかもしれませんが、それにしては簡素すぎる気がします。僕はこの三つ合わせて、「わたしが扉を開けられない理由」だと考えます。

「光の射さない窓」→展望の見えない未来、それに対して主人公が感じている不安

「道のり」→扉にたどり着くまでの苦労を思い返し、扉を開けた後にも続くであろうそれに辟易している

「わたしを傷つけたすべての人」→扉の先でもまた自分を傷つける人に出会うかもしれないという恐れ(?)、新しい世界への恐怖

これらが、主人公が扉を開けることを邪魔しているのではないかと推測します。注目すべきはここで書き連ねられている扉が開かない理由は、すべて外的なものではなく、主人公自身の内面にあるということです。ということは、主人公に何かしらの変化が起こらない限りこの扉は開かない、言い換えると、主人公の内面の変化がこの歌詞の世界の変化につながり、曲調などの変化にもつながっているということになります。これは文学において「小説(Roman)」の作法に分類されます。ちょっとわかりにくいかもしれませんが、いろいろなことを端折って説明しますと、「主人公の変化の後に周りの世界の変化が起こる」のが小説と捉えていただいて構いません。ここから先、何かしらの現象の理由は主人公の内部(考えや気持ち)にあるのではないかと仮定して読み進んでいきます。

また、この部分は歌詞につけられている音にも注目したいです。先程、僕は「光の射さない窓〜」が扉の開けられない理由であると書きましたが、32小節ではこの部分でcresc.しています。ここから、主人公は自身の恐怖や不安によって扉が開かないことを自覚しており、それを乗り越えようとしているのではないかと想像することができます。作曲者の土田氏が高校生へ送ったメッセージであると考えることもできるかもしれません。このcresc.の音色は様々な表現がありそうです。

 

さて、疲れてきたので今回はここら辺にします。まだ2連目までしか終わっていないのに長く時間をかけすぎた感がありますが、文学作品を読み取る時は序盤に一番長く時間をかけるのがいいと僕は思っています。GW中には残り全部もまとめてやっちゃいたいと思いますので、ここまで読んでくださった稀有な方は少々お待ちください。

 

それでは、今回はこの辺で

読んで面白いなと思った方は拡散してくださるとありがたいです。全国のコロナで暇な合唱部の高校生にこのくだらない無駄話が届くことを願っています。

 

引用:

課題曲紹介|NHK

https://www.nhk.or.jp/ncon/music_program/kadaikyoku_h2020.html

『僕が僕を見ている』の話

こんにちはのんのんです。

今回は2019年度のNコン課題曲について書きたいと思います(二度目になりますが)。ダダダっと書くと読みにくいと思ったので、以下のようにパートに分けてみました。

 

1.記事を書こうと思った理由とこの記事について

2.2019年度Nコン全国大会を聞いて

3.ラップの部分について

4.まとめ

 

1. 記事を書こうと思った理由とこの記事について

現在「Nコンの話 2020verその2」と「わが抒情詩の話」の二つの記事を作成しているのですが、前者の記事を書いている途中で、2019年度課題曲について、実際に取り組んだ高校生たちの演奏を聴かせてもらってもう一度考える必要があるのではないかとふと思い立ち、いてもたってもいられなくなったため、この記事を書き始めました。書くにあたって「Nコンon the Web」のサイトで全国大会出場校の演奏や公開されている講評を参考にしました。本来なら全ての出場校の演奏を聴くべきなのでしょうが、今回は「自分が以前考えていたことと実際の現場の演奏の比較」と「どのような演奏が評価されたのか」を考えようと思ったので全国大会での演奏にのみスポットを当てるつもりです。また、今回は以前書いた記事へのアンサーのような内容になると思われるので、よろしければ以下の記事をお読みになってからこの記事を読んでいただければと思います。

「Nコン課題曲の話(2019ver.)」

https://nonnonchorus.hatenablog.com/entry/2019/04/19/020126

この記事を書く目的は、自分が考えたことや自分自身の曲への取り組みと、一般的に評価される演奏との差異のようなものをちゃんと認識して、自らの感覚や考え方を批評することにあります。コンクールとかに出場しない指揮者は特に定期的にこういうことをしておく必要があるかなと思ったので書いてみました。

 

2. 2019年度Nコン全国大会を聞いて

どの演奏も本当に素晴らしい演奏でした。コンクールなどについて語る時にいつも思うのですが、毎年学生のレベルは上がっていることを感じます。取り組みかたや情熱など、見習わなければといつも襟を正す思いにさせられます。

さて、課題曲を聞いた感想ですが、どの学校もまず「音」をしっかりと磨いていました。これはごく当然のことなのですが、コンクールで一定の評価を得るためにはやはり技術をちゃんと固めておかないといけないということになります。僕はこれはコンクールだけではなく、おそらく音楽芸術の本質であると思っています。まず音を「絶対的に」磨いておくことがいい演奏の秘訣なのかなとここ数年は思っています。ただ、これは例年そうなのですが、やはり自由曲に比べるとボイスの統一感や和声のフレームなどに課題の残る団体も多かったと思います。しかし、自由曲が本当に名演ばかりだったので比較的そうであるだけで、この曲を表現するのに十分な再現力ではあったと思います。(この「十分」という表現はかなり危険で、語弊を生むことは承知していますが、他に言いようがなかったので渋々使いました)

表現について、全体的にそれぞれの団の持つ音色がそのまま曲全体の表現になっていたように感じました。大人びた声をしているところは大人な表現、クリアな明るい声のところはすっきりと軽やかな表現になっていました。これはおそらく各団体が意図したものよりも、曲の性質に依存しているところが大きいと思います。この曲が団の個性を邪魔しない作りになっているため、ちゃんと音を磨いた結果、その団の持つ特有の音色に沿った表現に「なっていた」のではないかなと聞いていて思いました。その中でも一歩踏み込んだ表現をした団体が全国大会でも高く評価されていたのですが、それでも変にこねくり回すようなことはしないで、楽譜やフレーズから自然に感じ取られる表現をそのまま素直に伝えようとしていた演奏が高く評価されていたように思います。Nコンに限らず多くの学生コンクールは自然さ、外連味の控えめさを評価する傾向にありますので、今年もそのような演奏が評価されたのではないでしょうか。また、日本語の語り口が巧みな演奏も高く評価されていました。これもある程度一般的なことで、日本語は「音の立派さ」と「言葉が言葉としてきこえる」ことを両立させにくい言語であるので、そこのブレンドがうまければいい演奏になりやすいです。そして、ここからは少し細かい話になるのですが、「部分的(瞬間的)な表現」を演奏に上手く取り入れている団体もあったように思います。音楽という芸術の持つ性質に依存していると思うのですが、ある部分(ある単語やフレーズの旋律、ある和音)に着目して、その部分のみ少し過激な表現をする(楽譜に書いていないことをあえてしたり、書いていることを過激にやったりする)と聞いている人を惹きつけやすいです。その表現は全体の統一感からある程度逸脱させても構わない、それどころか少し逸脱している方が良く聞こえてきます。もちろん根拠がないとわけわかめになりますので、根拠と説得力は必要です。これを音色やドラマによる全体的な表現と対比させて、「部分的な表現」と私は呼んでいるのですが、わかりにくいと思うので『僕が僕を見ている』の楽譜を用いて具体的にいくつか例をあげます。

・6小節目アルトの「死んでいるんだ」に着目し、その部分をシリアスな音色で歌う。他パートは5→6に向けてcresc.し、6に入ったらいきなり音量を控える

・65小節目「さあどこへ行こう」に着目し、あえて一段階音量を落とす

・74小節目下三声「うたおう」に着目し、マルカートで歌う

これらは全て楽譜には一切書いていませんが、曲の内容などからこのくらいはやってもいいだろうと推測されます。これらのような「部分的な表現」を上手く取り入れている演奏は評価されていたと思います。(これについては僕の好みもあるかもしれないのであまり信用しないでください)

なんか当たり前のことばかり書き連ねている気がしますが、一応まとめます。今回のコンクールで評価された演奏の特徴は、

 

まず音が磨かれていて、日本語がよく聞こえてくること。表現については、それらの技術的な取り組みの中で生まれたそれぞれの団の音色自体が全体を統一する表現になるから、それを素直に表現として採用していること。その自然な表現を損ねるような解釈や表現はなるべく避け、もしするのであれば部分的な表現に留めていること。

 

のようになるかなと思います。部分的な表現は今回はあまり評価には関わっていなかったのではないでしょうか。こうして書いてみると評価の観点自体は結構例年通りな感じがしますね。

ただ、私は今年のコンクールはやはり例年とは違う感じだったと思っています。まず一つは、表現のベクトルがはっきりした演奏はやはりなかったという点です。前の記事にこの曲は「表現の軸がはっきりしていない」みたいなことを書いたと思うんですが、今回はお仕着せの表現の軸、言い換えればある種の正解のようなものを発見する必要がなかったため、全体的な統一感はあっても方向性が明瞭な演奏はそんなになかったように感じました。もう一つは、それぞれの団体の持ち前の音色をそのまま出すことが良い表現に繋がっていたという点です。これはかなりいい傾向であると思っていて、各団体の音色の個性によって有利不利が付かない、またはそれによる有利不利を考慮せず演奏や審査ができるというのは、芸術をある基準によって評価する点において悪くないことなんじゃないかと思います。また、課題点もあったと思っています。それは、全体の統一感や自然さが極めて素晴らしかった故に、場面ごとのイメージが明瞭に、映像的に現れてくる演奏が少なかったのではないかという点です。この曲はイメージの方向性が楽譜からは与えられていないため、それをより自由に表現できるところが面白いと思っていたのですが、やはり困難だったようで(少なくとも僕は簡単にはできないです)、場面ごとのイメージが現前してくるような演奏は少なかったかなと思っています。これは部分的な表現と重なると思うのですが、全体の統一感との兼ね合いがあるので、コンクールという舞台ではやりにくかったということでしょうか。ただ、この曲はそれをちゃんとやった方が本質につながると思います。僕の所感をまとめます。

・全体的な統一感>方向性の明瞭さ

・各団体の持ち前の音色が活かされていた

・場面ごとのイメージをもっと強く持ち、表現した方が曲の本質に迫っていると思う

こんな感じです。

 

3. ラップの部分について

2までで言いたいことは言い切ったのでここらへんは完全に余談なのですが、Cパートのラップ部分はどの団体も頭を悩ませたのではないかと思います。僕自身もこれは横山先生のおちゃめなチャレンジだと思っていて、最後までどうやるのが良いかわかりませんでした。「さあ、あんたらやってみなさい!」みたいな。マジ困る。今回は地声でやるか歌声でやるかみたいなところをまず考えたのですが、僕は歌声でやっちゃった方が結構安牌だったんじゃないかなと思ってます。先程いった場面ごとのイメージ云々からすると地声でやるのがいいはずなのですが(おそらく横山先生の意図もそこにあると思われます)、そこに生まれるギャップとの兼ね合いを考えると歌声でやる方が個人的に好みです。でも多分地声でやった方がいいです。高校生ともなると立派な声で歌いますから、そこにあえて地声を放り投げることは様々なレトリックになりうると思いますが、聞いていてそれに成功している団体はそんなになかったかなあと思ってます。あんまり個別の団体の名を出すのもどうかと思うのですが、豊島岡さんはギャップが上手く表現の助けになっていて素敵だなと感じました。あと多分ですけどこういう時は目を瞑って聞いてもわかる表現にした方がいいです。僕は今回全部音だけで聞いたので、どの団がどんな動きをしていたかはさっぱりわかりませんので、特定の団体を批判するつもりはないことをご理解ください。

 

4. まとめ

まとめとしては、以前書いたこの曲はコンクール向きではないというのは変わらないということを再び申し上げます。やはりコンクールでは演奏を総合的に評価するしかないので、それに現れにくい部分をどう感じるかという問題点は依然残ったままであると思われます。ただそのような中でも全国の高校生はこの難しい曲に真摯に取り組んで、素晴らしい演奏をしてくれているので、本当に頭が下がります。課題曲を毎年新曲にするのは高校生には負担が大きいですが、かなりいい試みだと思っているので、その方針は変えずにやっていって欲しいと思ってます。

以下雑感ですが、学生のコンクールで「自然さ」を過剰に評価するのはちょっと怪しいと僕は思っています。おそらくそのような表現を主軸にしている団体に上手い団体が多いためそうなっているとは思うのですが。コンクールでの結果はわりと全国の学校の指針になると思うので難しいところですね。

 

長くなりましたが以上です。いつものように書きたいことをそのまま書きまくったので、わかりにくい部分も多々あると思うのですが、質問などコメントしていただければ出来る限りお返事します。

それでは今日はこの辺で

Nコン課題曲の話(2020ver.)その1

こんにちは、のんのんです。

今回は2020年度Nコン課題曲について何かしらを書きたいと思います。

2020年度の高校の部課題曲は『彼方のノック』、作詞は辻村深月氏、作曲は土田豊貴氏です。この曲の情報を初めて見たときの僕の素直な感想は「また散文作家(詩人や作詞家ではない人)に作詞をお願いしたのか」というかなりネガティブなものでした。ぱぱっと調べたんですが、5年前くらいから高校の部の作詞は脚本家や小説家などに任せていることが多く(4/5でした)、Nコンサイドの目的はわかりませんが、流れとして散文を生業にしている人に作詞をしてもらうという方向に行っているのかなと思います。いざ取り組んでみるといい曲ばっかりだったのですが、「普通に作詞は詩人に任せろよ」みたいな思いをずっと抱えていました。しかし、これもある種現代の流れになってきているようですので(というよりもこの流れに何かしらの意味や価値を感じ始めてきたので)、うだうだ文句を言うのではなく、「なぜ散文作家に合唱曲の作詞を任せるのか」みたいなことをここらへんでしっかり考えてみたいと思います。つまり今回の記事のテーマは

テーマ1. 散文作家に作詞を任せること、またはそのような流れから生まれる特別な意味と価値を発見する

テーマ2. 2020年度Nコン課題曲を用いて「散文的な」合唱曲の取り組み方について考える

以上2つになります。どうぞお付き合いください。以下の議論で「Nコン課題曲」と表記した場合は高校の部の課題曲を指すことにします。高校の部に絞った主な理由は、私自身がNコン高校の部に比較的深く関わっており、まともな思考ができるんじゃないかと思っていること、小学校・中学校の部は主とする議論内容以外の要素をかなり孕んでいることの二つです。

 

1. 散文作家に作詞を任せること、またはそのような流れから生まれる特別な意味と価値を発見する

非常に素朴な考え方をすると、詩人ではない人に作詞を任せる理由は「合唱と他の芸術ジャンルを接触させてみる」ことだと思います。多くの合唱団(部活動やサークル、一般やプロ団体全てを含む)では、詩人と音楽家(もっというと合唱作曲家)によって作られた曲をメインのレパートリーとしています。そこに新たな芸術ジャンルを扱う人間を関わらせることによって何かしらが生まれるかもしれないと考えるのは至極真っ当なことだと言えるのですが、それによる現実的な範囲での影響(中高生の合唱人口の増加など)は、はっきり言ってごく些細なことであり、そこへの価値は特に感じません。合唱と他の芸術ジャンルを接触させることによる最も大きな意味は、それによって新たなジャンルが合唱芸術の内外に確立する可能性があることだと思います。Nコン運営がそのような意図を持っているとまでは断定できませんが、今回設定した「散文作家に〜意味と価値を発見する」というテーマに対する回答はこれになります。しかし、それは未だに達成されていません。実際にここ数年の課題曲は始めに述べたとおりいい曲ばかりだったので、何かしら新しいものやいいものが生まれていることは間違い無いと思うのですが、それでもなお既存の合唱曲の範囲を突き抜けてはいないように感じました。というのも、過去のNコン課題曲の中で、散文作家による作詞の曲は(多分)全て「散文作家が書いた詩」をもとに作曲されていたからではないかと思っています。(平成26年度の「共演者」がとても怪しく、かなり迷いましたが詩に分類できると思います)

ここで一旦「散文」と「詩」の定義を確認しておきましょう。「詩」はごく単純に、「韻律や定型を用いて表される文学の形式」と定義します。かなり雑な定義になりますが、今回の試論においてはおそらくこれが最も分かりやすく、的確であると思います。「散文」の定義はその対義語とします。すなわち、韻律や定型を持たない文学の形式ということです。そしてそれぞれを生業にする文学者たちを「詩人」や「散文作家」と呼びます。言うまでもないことですが、既存の合唱曲の殆どが散文ではなく詩を歌詞として用いています。というのも、韻律や定型という詩の持つ性質が、楽式にある程度従って、言葉に旋律や和声をつける「作曲」という行為に適しているためです。また、詩はそもそも朗読されてきたものですから、音声にした時の美的感覚にも基づいて洗練されてきました。加えて合唱の起源も大雑把に言って詩の朗読の派生なので、詩と合唱には深い結びつきがあります。現代の日本の作曲家も合唱曲を作るときは当然歌詞には詩を好んで採用します。わざわざ散文を選んで曲を作ることはアバンギャルドな営みと言って差し支えないと思います。

私がまず何を言いたいかというと、合唱曲の歌詞に詩が選ばれていることにはちゃんとした理由があり、特別な理由もなく散文を選ぶことはないということです。過去Nコン課題曲の作詞を担当した散文作家は皆、普段作っていらっしゃるであろう散文ではなく、詩を歌詞として書いていました。そのため奇抜な曲が誕生することもなく、いわゆるスタンダードな曲が課題曲になっていました。ただこの限りにおいて、つまり「散文作家による詩」が歌詞になっている場合においては、散文作家に作詞をお願いすることに対して大きな意味は見出せないと思います。もちろん個人にスポットを当てると意味合いは異なります。しかし、それでは「リリー・フランキー氏やつんく氏による作詞」への価値や意味は見出せても、「散文作家による作詞」に大した価値や意味はないということになってしまいます。

ここまでの話をまとめます。

Nコンはここ数年、散文作家に作詞を任せている

Nコンの作詞を担当する散文作家は、全員が散文ではなく詩を課題曲の歌詞として作成していた

そのため「散文作家による」という文脈よりも「つんく氏やリリー・フランキー氏による」という文脈が強調され、この限りにおいては、いい曲が生まれ続けてはいるものの、その曲は既存の合唱芸術の範囲を超えることはない

ここにおいて新たな問いが生まれます。それは、ここ数年の流れの中で、新たなジャンルが合唱芸術の内外に確立する可能性を見出せるのはどのような場合なのか、という問いです。その答えは、「散文を歌詞とした合唱曲」が課題曲として出来上がった場合、というものになります。

さて、長くなりましたがここからが本題になります。今年の課題曲『彼方のノック』の歌詞は散文です。なんとなく詩っぽく見えますけど、ほぼ完全に散文です(これについてはその2で詳しく説明いたします)。Nコン課題曲の歴史の中で散文による合唱曲が生まれたのは初めてなんじゃないでしょうか。もちろん視点をNコンから広げてみると、長い合唱の歴史の中でそのような曲がなかった訳ではありません(僕自身も何曲か散文を歌詞とした合唱曲を扱ったことがあります)が、多くの人間が歌うことになるNコンの課題曲がそうであるというのはそこそこ大きな影響を及ぼすと思っています。すなわち、これを契機に散文を歌詞にした合唱曲や、散文を扱おうとする作曲家が増加していく可能性があると感じています。すると、これまでは「特殊」なものだった、散文を歌詞とした合唱曲があるひとつのジャンルとして確立してくるかもしれません。合唱曲が「詩曲」と「散文曲」というような感じで分けることができるようになるということです。その2で述べることになると思いますが、散文への曲の付け方と詩へのそれは異なる部分が結構あり、演奏する我々の立場からしても解釈のアプローチの仕方が異なってくるため、散文曲がジャンルとして確立するということは合唱界に一定の影響を及ぼすように思います。散文曲が生まれることによる既存の詩曲がさらに相対化されることも、もしかしたら意義のあることになるかもしれません。

以上がここ数年のNコン課題曲のムーブメントから私が感じたことになります。ここで一旦区切れ、テーマ2については次の記事に書きます。本当に僕が考察した通りになるであろうと自信を持って言うことは流石にできません。なぜなら合唱とは本質的に詩を扱うものであると考えられるからです。また、合唱を評価する場合、テクストに散文を選んだものよりも詩を選んだものの方が高い評価を受けやすいのは歴史が長いぶん当然であるので、そこでわざわざ散文を選ぶ意味も特にないとも思います。しかし、散文曲ならではの意味内容と音素材の一致が果たされるなど、散文曲で詩曲とは異なり、かつある程度普遍的な美を表現できることがわかった場合、またはその手法が確立された場合はその限りではなく、新たな合唱芸術のジャンルが生まれることになるのではないでしょうか。詳しくはその2で書きますが、今回の課題曲からそのような兆しを感じたため、考えを深めてみました。以下は補足的な内容になります。

「散文曲」について、似たようなムーブメントはどこでも起こっていると思います。しかし、ドイツ語やフランス語、ラテン語などの言語は散文でもある程度どうしても韻を踏んでしまう(格変化のため)ので、ここで僕が勝手に作った「詩曲」「散文曲」という分類は困難である、ないしは別の文脈を伴う可能性が高いと考えています。英語は、韻からはある程度自由だと思うのですが、リズムや抑揚といった観点から同じことが言えるのではないかと思ってます。つまり、今回僕が議論した内容についてはとりあえずのところ日本語の合唱曲に限ると考えていただきたいです。

それでは今回はこの辺で

次の記事に続きます

合唱団の名前を決めた話

こんにちは、伊藤望です。

今回は一昨年度から立ち上げた合唱団の名前が決定したので、そのご報告と由来等の説明、加えて作成したロゴとそのコンセプトの紹介をしたいと思い、記事を書くことにしました。団員への共有も目的としています。言いたいことを全部書いたため、とても長いので体力のある時に読んでいただきたいです。


さて、一昨年の2月に「合唱団(仮)」という名前で合唱団を立ち上げました。(活動自体は4月だったのですが)新しい名前をご報告するにあたって、なぜこのようなみょうちきりんな名前でスタートさせたのかをまず説明(弁明?)します。
合唱団を立ち上げようとした当初、この集まりのことを「合唱団」と名付けていいものだろうか?と、常に疑問を持っていました。それは私の変なこだわりが理由なのですが、私は「団員一人一人が自らの技術、感性や知性を、責任を持って管理育成できる人々の集まり」が理想的な合唱団だと考えていました。これこそが合唱団の定義であるとさえ考えてもいました。今もそれは変わっていないのですが、当時もただ集まって歌っているだけではそのような合唱団になることは不可能だと、少なくとも今はまだ合唱団ではないなと思っていました。そのためお尻に(仮)をつけてしばらくの間活動をしていました。昔の記事にも「どこかで合唱をやっている人たちの集まり」のようなものがいいなあとかなんとか書いたような気がするのですが、念頭にあったのは以上のような内容になります。つまり「独立した合唱人」の集まりを理想としていたということになります。活動の1、2年目の練習や取り組みは、私たちが合唱団になっていく道のりだったのではないかと、今振り返ると思います。

もう一つの理由は前の記事に書いたとおりで、名は体を表すという言葉にあるように、合唱団の名前を活動を始める前に決めてしまうと、それがそのままコンセプトや目標になってしまいかねない、その場合、自由な活動の阻害になるかもしれないと考えていたためです。全くの杞憂だったと今なら思うのですが、いままで部活動やサークルでやってきたような、ある一つの目標や発表の場に向けて、そこで最善の演奏ができるように、ありとあらゆる選択肢から一つだけを選び、いろいろなものを切り捨てて洗練させていくスタイルではなく、いいと思ったもの、必要だと思ったもの、ともすればそうであるかもしれないと思ったものさえを全て拾っていくような取り組み方をしたかったのです。そのためには、ある一つの名前を決めるのではなく、やっていくうちにふさわしいようなコンセプトを見つけていけばいいんじゃないかと考え、あえて名前を決めないスタイルでやってきました。

まとめますと、

1.合唱団と呼べるような集まりではない。

2.名前を決めることによってやりたいスタイルの取り組みができなくなるかもしれない。

という理由で「合唱団(仮)」というよくわからない名前のまま続けてきたということになります。

そして、今期一年活動してきて、上記2つの問題に答えを出すことができた、より正しく言うと、いままでの活動の中でメンバーと共に答えを見つけることができたと思ったため、名前を決めることにしました。

1/26に合唱団(仮)の初めてのオフィシャルな演奏披露の場として、「文京区合唱のつどい」に参加いたしました。その本番の数日前、なんとなくそれまでの活動を振り返った時に、そろそろ(仮)が合唱団になり始めている、メンバー1人1人の技術や感性、知性に対しての関わり方が昔と変わり始めている、というようなことを確かな実感として抱きました。その理由を説明するためには我々がどのような練習をしてきたかを事細かに述べねばならないため割愛しますが、ヴォイストレーニングをお願いしている大島先生のご協力のおかげであることを確信しております。大島先生のご指導を受けていく中で、メンバーがそれぞれの技術の理想や目標に対して、ある程度はっきりとした道筋または梯子を見出すことができたと思います。それに伴って曲の内容や表現への向き合い方もガラッと変わりました。そのようなみんなの練習での姿を思い出すうちに、そろそろ合唱団になってきた、もちろんまだまだだけど少なくとも一歩は踏み出し始めた、合唱団の卵から合唱団のひよこくらいにはなってきたんじゃないかと思えてきました。よし!それなら名前を決めよう!そのためにはコンセプトだな!とか思った時、見えてきたうちの団のコンセプトはやはり「全員が全員で上手くなること」これ以外にないのではないかとの考えに至りました。合唱へのモチベーションや目標はそれぞれで持てばいい、でも「全員が全員で上手くなること」それだけは守ろう。それよりも狭い、活動の幅を狭めるようなコンセプトはもうなくてもいいや〜と結論がでました。

名前を決めた理由は以上になります。

 

さて、合唱団(仮)は

Ensemble Werden

という名前を付け、これから活動していくことにしました。「アンサンブル ヴェルデン」と読みます。理由がいくつもあるので以下で説明します。

Ensembleはフランス語で「合奏」という意味になり、合唱シーンでは「合唱団」という意味で用いられることも多いです。Werdenはドイツ語の「〜になる」という意味の動詞、未来の助動詞の不定形、名詞としては「成長」などという意味になります。フランス語とドイツ語を混ぜた理由は、この団の形式にあります。うちの団には指揮者が私ともう1人います。それぞれのルーツというか好みのようなものが、片方はフランス、片方はドイツとはっきり分かれているため、それを踏まえて別々の言語を合体させました。また、これからも2人でやっていくぞという意思表示でもあります。

「Ensemble Werden」をフレーズとしてそのまま読むと2つの意味になります。ひとつは「(我々は)合唱団になる」そしてもうひとつは「この合唱団は〜になる。この合唱団は成長する」という意味です。前者はうちの団の取り組みとかなり密接に結びついています。先ほど述べた理想の合唱団、「団員一人一人が自らの技術、感性や知性を、責任を持って管理育成できる人々の集まり」にもっと近づいていくぞ、という意志が込められています。後者は「全員が全員で上手くなる」というコンセプト、そして、それ以外には目標やコンセプトのようなものをなにも決めなかったことと結びついています。様々な理想や目標があり、それはメンバーそれぞれが持っていればいい、団としても、いつだって何かを多分目指しているんだろうけど、それが何であるかは一つだけに決めなくていい、全員が全員で上手くなる(=成長していく)ことだけをとりあえずのコンセプトに活動していこうという思いが込められています。

ここまで読んでくださった方が果たして何人いるのかわかりませんが、「Ensemble Werden」という名前にした理由は以上になります。我ながらよく考えたと思っています。たいへん気に入っているので是非覚えてください。「アンサンブル ヴェルデン」と読みます。

また、素晴らしいロゴも作成しました!団内の誇るアーティストに作ってもらいました!f:id:nonnonchorus:20200301004100j:imagef:id:nonnonchorus:20200301004104j:image

ロゴコンセプトも教えていただいたので、それを以下に原文まま載せます。

「到着することのないなにかを目指して進み続けている。けして到着することはなく、それでいて、気づけば目指していた地点は通りすぎている。さらに今の地点から見えているなにかを目指し、なおも進み続けーー

 このイメージを、どこまでも続き、けして辿り着くことのない「地平線」という概念で象徴しました。「地平線」は、種を抱える土、きらめく湖面、光がきりとる山際、運行する太陽から表しています。
 同時にこれらの要素は4つのパートも示しており、左でそのパートを貫くのは指揮棒です。指揮がパートを通してできた図が、私たちの旗印になります。」

f:id:nonnonchorus:20200301005406j:image

 

最後に、僕がなぜ合唱団を作ってまで合唱を続けているのかを書いて締めたいと思います。合唱をやっている人なら誰しもが「憧れの演奏」に出会ったことがあると思います。僕は指揮者として活動してきた期間が長いので、その「憧れ」は観客として演奏を聞いた時よりも、自分で納得のいく演奏ができたとき、こんな演奏をまたしたいと思って生まれることが多かったように思います。演奏とは行為自体は一度きりですが、それまでに長い期間の取り組みを必要とします。納得のいく演奏とは、納得のいく練習、納得のいく取り組みをして初めて生まれるものです。僕はそんな演奏を何回も何回もしたい、そんな演奏ができるような取り組みをしていきたいという憧れを動機に合唱を続けてきたし、これからもその憧れを追い求めて続けていくんだと思います。

最後は少しこっぱずかしいことを書いてしまいました。Ensemble Werdenをこれからもよろしくお願いします。

それでは、今日はこの辺で

おやすみなさい

表現と詩の話

こんにちはのんのんです

表現と詩の解釈について、最近思うところがありましたので書きたいと思います。今日の合唱団の練習で団員に話したことを文章としてまとめたものになります。以下を読んでうちの団に興味が出てきた方は是非入団してください。

 

現代の合唱シーンにおいて演奏者の解釈が一切入らない演奏はまずあり得ません。ほとんどの指揮者や歌手、伴奏者が曲についてそれぞれの解釈をして、いわゆる「表現」をしており、コンペティションでもそれが評価されるようになりました。演奏がすでに狭義での再現芸術では無くなったことはもはや当然となりつつあり、みなさんもそれを感じてらっしゃると思います。

 演奏の方式やスタンスに関しては、はっきりと切り離して区別できるわけではありませんが、あえて分けるとしたら大まかに2つの方向で考えることができると思います。それは「代弁」と「表現」です。

「代弁」とは演奏に不必要な解釈を交えることなく、作詞者と作曲者のイメージや主張を演奏によって再現しようとするスタンスです。そのために必要なことは基本的には楽譜に全て書いてあるため、演奏者は彼自身の解釈や個性をあえて入れようとはせず、忠実に楽譜に書いてあることを再現していくことになります。もちろん一切の恣意を除くことは人間には困難ですから、楽譜に完璧に忠実にというわけではなく、スタンスとしてそうあるだけということをご理解ください。この考え方は演奏する上で必要不可欠であり、演奏で「表現」をするためにも「代弁」のために楽譜を読み解いていく作業は大切です。このスタンスをしっかり守らないと演奏できない作品も数多くあるように思います。そしてこれに必要なものは「正しさの追求」であるとも考えます。

「表現」については特に説明はいらないと思うのですが、あえていうなら演奏者が楽譜への正しい理解を元に試行錯誤して独自の演奏を作り上げようとする試みとなるのでしょうか。ここでの表現のための試行錯誤とはどのようなものかと考えてみたところ、やはりそれは「意味付け」となります。楽譜に書いてある記号や音符、歌詞を解釈した上で演奏者自身で意味を付与していく作業が「表現」のための試行錯誤であると考えられます。そして、「代弁」のスタンスを徹底しないとできない作品があるように、この「表現」への取り組みをおろそかにしてしまうとうまくいかない作品があることも確かです。(表現についてはこの前の記事に書いてありますのでぜひご参照ください)こっちに重要なのは「内的な根拠(と説得力)」でしょうか。

今日ではこれらのことを軽視している合唱団はほとんど存在せず、一般団体のみならず学生団体においても「代弁」のための行程を大切にし、必要ならば「表現」へと積極的に広げようとしていく、そんな姿が見られるようになったと思います。僕の参加した合唱団やコーチしていた学校ではそのような試みがよく見られ、本当に楽しく合唱に取り組めたという良い記憶があります。

さて、演奏(以下「演奏」という言葉を用いた際は上記の二つのスタンス両方を考慮しているものとしていただきたいです。)のためには作品の解析と解釈が必要になります。合唱作品、すなわち「音」と「詩」の解釈です。合唱作品がこれら二つの異なる芸術的要素の組み合わせである以上、その解釈には音楽的側面と文学的側面両方からのアプローチが必要不可欠であることは納得していただけるかと思います(例外はあります)。相互補完関係にありますので「音」を文学的側面から、「詩」を音楽的側面から考えていくことも合唱ではよくあることですし、合唱の楽しいところとも考えられます。音楽的側面からのアプローチについて、それを適当にやっている合唱団はあまりありません。今では高校生であっても楽典の勉強をし、和声を正しく理解し、必要とあれば教会旋法や音描法などの情報を仕入れて演奏に活かしています(びっくり)。そこまでとは言わなくとも、演奏のための楽曲解析において音楽的側面からの様々なアプローチが重要であり、それを試す必要があるということは現代では共通認識となっているように感じます。

しかし、ようやく本題になるのですが、文学的側面から楽曲を把握する取り組みについては非常におろそかで不十分であると私はここ数年の自らの経験から強く感じました。有り体に言ってしまいますと、pと書いているところをなんの考えもなくffで演奏しようとする演奏者はあまりいないのですが、楽曲の文学的解釈においてはそういうことが頻繁に起こっているのです。演奏において「正しさの追求」も「内的根拠」の想像も詩においてはあまりなされていないとなんとなく思っています。そのせいで良くない演奏が生まれると考えているわけではありませんが、音楽的なアプローチに対して文学的なそれがかなり軽視されている現状は危険であると感じています。合唱に携わる人は音楽と文学の両方を扱うものであると私は思っています。もっと詩への理解を。目の前の詩には詩人、言語、時代、思想などの様々な歴史があります。それをわざわざ説明して楽譜に起こしてくれている作曲者はあんまりいませんが、同様にそれを考慮せずして作曲する人もそんなに多くないような気がします。

このような状況に陥ってしまった理由はいくつもあるのですが、一つは詩の解釈をできる人がそんなにいないと考えられているためであると思います。これは明らかな錯覚です。みなさんは音について定式化された情報を読み取り、定式化されえない情報も読み取ろうとし、それを演奏につなげているのですから、詩や文学においても可能だと考えないほうがおかしいです。能力よりも姿勢の問題です。そんなに難しいことではありませんし、少なくとも不可能なことでは決してありません。知識や方法論も探せば出てきますし、訓練すれば巧みになっていくはずです。積極的に挑んで欲しいと思っています。

繰り返しになりますが合唱は音楽と文学という二つの芸術から成り立つものです(これはおそらく現代では否定しようがない事実であると思われます)。音を大切にするのと同じくらい、詩や言葉を大切にして欲しいと強く願っています。もちろん私自身そういう指揮者でありたいと思っています。

 

以上が私の考えになります。以下は書いていていろいろ思ったことを断片的に残すのみになります。

まず、合唱界の文学軽視の傾向は確かにあるものだと思っているのですが、それの根源がいまいち掴みきれていません。なんとなく感じていることがあり、現代に限っていうのであれば「止まらない動的欲求の凄まじい速度」と「芸術の消費」が関係しているような気がしています。それについても考えがまとまったら何か書くかもしれないです。

また、今回はどのように詩が軽視されているのかについてあまり具体的に述べていないため、そこらへんがふわふわしていますが、これは単純にその内容を具体的に書くことに意味を見出せず、気が乗らなかったためです。気になるのであればこっそり聞いてくだされば僕の考えをお伝えします。

本来このようなことを考え始めたきっかけは、現代においてありえない速度で消費される言葉と音楽について思うところがたくさんあったからです。私は普遍的価値と逆説の芸術が好みなのでずっとそれを探してきたのですが、その取り組みとともに、現代のシステム(サイクル?)から生まれてくる何かを見出すことも必要なのではないかと最近になって考えるようにもなりました。ただそれはちょっと体力を使いそうなので心に余裕があるときに考えていきたいと思ってます。

 

それでは今回はこの辺りで