のんのんの無駄話

言いたいことを言いたいだけ言いたい

表現と詩の話

こんにちはのんのんです

表現と詩の解釈について、最近思うところがありましたので書きたいと思います。今日の合唱団の練習で団員に話したことを文章としてまとめたものになります。以下を読んでうちの団に興味が出てきた方は是非入団してください。

 

現代の合唱シーンにおいて演奏者の解釈が一切入らない演奏はまずあり得ません。ほとんどの指揮者や歌手、伴奏者が曲についてそれぞれの解釈をして、いわゆる「表現」をしており、コンペティションでもそれが評価されるようになりました。演奏がすでに狭義での再現芸術では無くなったことはもはや当然となりつつあり、みなさんもそれを感じてらっしゃると思います。

 演奏の方式やスタンスに関しては、はっきりと切り離して区別できるわけではありませんが、あえて分けるとしたら大まかに2つの方向で考えることができると思います。それは「代弁」と「表現」です。

「代弁」とは演奏に不必要な解釈を交えることなく、作詞者と作曲者のイメージや主張を演奏によって再現しようとするスタンスです。そのために必要なことは基本的には楽譜に全て書いてあるため、演奏者は彼自身の解釈や個性をあえて入れようとはせず、忠実に楽譜に書いてあることを再現していくことになります。もちろん一切の恣意を除くことは人間には困難ですから、楽譜に完璧に忠実にというわけではなく、スタンスとしてそうあるだけということをご理解ください。この考え方は演奏する上で必要不可欠であり、演奏で「表現」をするためにも「代弁」のために楽譜を読み解いていく作業は大切です。このスタンスをしっかり守らないと演奏できない作品も数多くあるように思います。そしてこれに必要なものは「正しさの追求」であるとも考えます。

「表現」については特に説明はいらないと思うのですが、あえていうなら演奏者が楽譜への正しい理解を元に試行錯誤して独自の演奏を作り上げようとする試みとなるのでしょうか。ここでの表現のための試行錯誤とはどのようなものかと考えてみたところ、やはりそれは「意味付け」となります。楽譜に書いてある記号や音符、歌詞を解釈した上で演奏者自身で意味を付与していく作業が「表現」のための試行錯誤であると考えられます。そして、「代弁」のスタンスを徹底しないとできない作品があるように、この「表現」への取り組みをおろそかにしてしまうとうまくいかない作品があることも確かです。(表現についてはこの前の記事に書いてありますのでぜひご参照ください)こっちに重要なのは「内的な根拠(と説得力)」でしょうか。

今日ではこれらのことを軽視している合唱団はほとんど存在せず、一般団体のみならず学生団体においても「代弁」のための行程を大切にし、必要ならば「表現」へと積極的に広げようとしていく、そんな姿が見られるようになったと思います。僕の参加した合唱団やコーチしていた学校ではそのような試みがよく見られ、本当に楽しく合唱に取り組めたという良い記憶があります。

さて、演奏(以下「演奏」という言葉を用いた際は上記の二つのスタンス両方を考慮しているものとしていただきたいです。)のためには作品の解析と解釈が必要になります。合唱作品、すなわち「音」と「詩」の解釈です。合唱作品がこれら二つの異なる芸術的要素の組み合わせである以上、その解釈には音楽的側面と文学的側面両方からのアプローチが必要不可欠であることは納得していただけるかと思います(例外はあります)。相互補完関係にありますので「音」を文学的側面から、「詩」を音楽的側面から考えていくことも合唱ではよくあることですし、合唱の楽しいところとも考えられます。音楽的側面からのアプローチについて、それを適当にやっている合唱団はあまりありません。今では高校生であっても楽典の勉強をし、和声を正しく理解し、必要とあれば教会旋法や音描法などの情報を仕入れて演奏に活かしています(びっくり)。そこまでとは言わなくとも、演奏のための楽曲解析において音楽的側面からの様々なアプローチが重要であり、それを試す必要があるということは現代では共通認識となっているように感じます。

しかし、ようやく本題になるのですが、文学的側面から楽曲を把握する取り組みについては非常におろそかで不十分であると私はここ数年の自らの経験から強く感じました。有り体に言ってしまいますと、pと書いているところをなんの考えもなくffで演奏しようとする演奏者はあまりいないのですが、楽曲の文学的解釈においてはそういうことが頻繁に起こっているのです。演奏において「正しさの追求」も「内的根拠」の想像も詩においてはあまりなされていないとなんとなく思っています。そのせいで良くない演奏が生まれると考えているわけではありませんが、音楽的なアプローチに対して文学的なそれがかなり軽視されている現状は危険であると感じています。合唱に携わる人は音楽と文学の両方を扱うものであると私は思っています。もっと詩への理解を。目の前の詩には詩人、言語、時代、思想などの様々な歴史があります。それをわざわざ説明して楽譜に起こしてくれている作曲者はあんまりいませんが、同様にそれを考慮せずして作曲する人もそんなに多くないような気がします。

このような状況に陥ってしまった理由はいくつもあるのですが、一つは詩の解釈をできる人がそんなにいないと考えられているためであると思います。これは明らかな錯覚です。みなさんは音について定式化された情報を読み取り、定式化されえない情報も読み取ろうとし、それを演奏につなげているのですから、詩や文学においても可能だと考えないほうがおかしいです。能力よりも姿勢の問題です。そんなに難しいことではありませんし、少なくとも不可能なことでは決してありません。知識や方法論も探せば出てきますし、訓練すれば巧みになっていくはずです。積極的に挑んで欲しいと思っています。

繰り返しになりますが合唱は音楽と文学という二つの芸術から成り立つものです(これはおそらく現代では否定しようがない事実であると思われます)。音を大切にするのと同じくらい、詩や言葉を大切にして欲しいと強く願っています。もちろん私自身そういう指揮者でありたいと思っています。

 

以上が私の考えになります。以下は書いていていろいろ思ったことを断片的に残すのみになります。

まず、合唱界の文学軽視の傾向は確かにあるものだと思っているのですが、それの根源がいまいち掴みきれていません。なんとなく感じていることがあり、現代に限っていうのであれば「止まらない動的欲求の凄まじい速度」と「芸術の消費」が関係しているような気がしています。それについても考えがまとまったら何か書くかもしれないです。

また、今回はどのように詩が軽視されているのかについてあまり具体的に述べていないため、そこらへんがふわふわしていますが、これは単純にその内容を具体的に書くことに意味を見出せず、気が乗らなかったためです。気になるのであればこっそり聞いてくだされば僕の考えをお伝えします。

本来このようなことを考え始めたきっかけは、現代においてありえない速度で消費される言葉と音楽について思うところがたくさんあったからです。私は普遍的価値と逆説の芸術が好みなのでずっとそれを探してきたのですが、その取り組みとともに、現代のシステム(サイクル?)から生まれてくる何かを見出すことも必要なのではないかと最近になって考えるようにもなりました。ただそれはちょっと体力を使いそうなので心に余裕があるときに考えていきたいと思ってます。

 

それでは今回はこの辺りで